Seven Continents

STAY HUNGRY!! STAY FOOLISH!!
ドバイの人
おかしいとは思っていたんです。
ビシュケクやドバイに居る時、何度か日本の家族と電話のやりとりをしたけどいまいち話がかみ合わない。
なんでだろう?と。
 
それに加えて、もう一つ不思議に思うことがありました。
成田空港から救急車で東京の病院に搬送される際、空港を出る前に救急車のおっちゃんが病院にこれから向いますと連絡をいれて携帯を切った後、
「看護師、20時までに来いって言うんですよ。20時は難しいって言ったら、じゃあ鳴らしてでも(サイレンを)20時に来いって、どう思います?」
と不機嫌そうに愚痴られました。
どう思うって言われても、東京の土地鑑が全くないんで空港から病院までどれくらい時間が掛かるか見当もつかないし、こういう場合サイレンを鳴らして走るべきなのかどうかもよく分からんし。
「なんか大変ですね。急いで事故起こすよりは、安全運転でお願いしますよ」
と答えたものの、おっちゃんは看護師さんに対してよほどカチンときたみたいで、
「ぜったい、看護師が早く帰りたいからあんな無茶苦茶言うんですよ。ぜったいそうですよ」。

そんなおっちゃんの愚痴を聞いてて、やる気のない学生のバイトじゃあるまいし、早く帰りたいからサイレン鳴らして早く来いなんて言う看護師いないだろ。
でも、当たり前のことだけどサイレン鳴らして緊急走行するのは緊急時のみで、自分がそれに当てはまるとも思えんし、病院の人は何をそんなにせかしてるんだろ?という疑問も。
 
そんな疑問も病院に到着したら全て解決しました。
東京の病院に運び込まれ、ストレッチャーの上で上半身を起こし挙動不審な僕の姿を見てその場にいた医師も看護師も不思議そうな表情で、
「体、起こして大丈夫ですか?」
「横にならなくていいんですか?」
「意外に元気そうですね」
と声を掛けてきました。
意外に元気そうっていうのも失礼な気がするけど、それにしてもみなさん、変な目で見てくるし、この空気はなに?となんか居心地悪い思いをしているところで、付添いのドクターが病院の医師に怪我の症状を説明してくれました。
それを聞いて病院の医師も何かを納得したみたいで、ドクターとの引き継ぎが終わった後、病院の事情を教えてくれました。
 
今回、僕の怪我の症状は現地の病院からまず保険会社のパリ支社に報告されていました。
キルギスには僕が加入していた保険会社の現地オフィスがないため、中央アジアを統括していたのがパリ支社だったんです。
そのため最初はパリ支社へ報告がいき、次に東京本社。
東京本社から日本の家族や病院に連絡がいっていたそうなんです。
この連絡過程で、伝言ゲーム的ミスが発生。
 
ビシュケクでもドバイでも、診断結果は重症といえる箇所は腰の骨折のみ。
それも複雑骨折ではないし、神経も問題ないから安静にしていれば2週間で退院、2カ月で完治。
ドバイの病院では、日本へ帰国したら入院の必要もないし、通院する必要もないんではないか。
フランス人の付添いのドクターにも、日本で入院する必要はないし、リハビリも病院でやる段階はクリアしてるから帰国したら病院に行かなくてもいいと思う。
と言われていました。
 
ところが伝言ゲームの終着点、日本の家族と病院には僕の状態、
「脳挫傷、それから背骨と腰に骨折があり、身動きが取れず大変危険な状態」
と伝わっていたそうです。
 
そのため、病院ではドバイからこんな重症患者が運ばれてくる!という病院創設以来、最大級のイベント、そんなノリで僕の受け入れ準備をしていたそうです。
この話を聞くまでは、なんか感じ悪い病院だなって思っていたのが一転、僕は悪くないと自分に言いきかせつつ、意外に元気で本当にすいませんと謝りたくなりました。
 
そんなノリで受け入れ準備をしていただけあり、病院内で僕の存在は局地的に有名になっていました。
病室に運ばれた後、入院手続きや病院の案内などのために入れ替わりやってくる看護師さんにはそのつど、
「あの、ドバイの人ですよね?」
「ドバイで仕事してるんですか?」
「ドバイから来たんですよね?」
こんな感じで、すでに「ドバイの人」としてのイメージが定着していました。
 
「あの病室の患者さん、メチャメチャかっこいい!」と若い女性看護師さんの間で噂になるなら国や地域に関係なく、噂、サイコー!と思います。
でも、ビシュケクの病院ではセックスの勉強してると言われ、ドバイの病院ではイラクから来た、アフガニスタンから来たと言われ、東京の病院ではドバイの人と言われ、なんでこんな噂しか…?
| TOKYO | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
Non Non
 帰国は、生まれて初めてのビジネスクラスでした。
最初は担架付きの飛行機でって話だったけど、状態もそこまで悪くないんで代わりにビジネスクラスということで
 
ファーストクラスとビジネスクラスは値段の割にあまり差はないけど、ビジネスクラスとエコノミーは価格通りの違いがある、という話は耳にしていたけどまさに別世界。
もうエコノミーには乗りたくないです。
いずれは、怪我の力を借りることなくビジネスクラスに乗れるおっさんになりたいです。
 
帰国には、フランス人ドクターが付き添ってくれました。
フランスからわざわざ来ていただき、ドバイの病院から東京の病院まで付き添ってもらい、空港ではチェックインや搭乗手続き、車いすの手配など面倒なことは全てやってもらいとても助かる存在でした。
 
ただこのドクター、とてもお酒が好きみたいで。
ドバイの空港で航空会社のビジネスクラスのラウンジに着くとまずワイン。
子供が食べ切れないのに本能的にお菓子を大量にキープするみたいに、ワインやらビールをとりあえずキープ。
ワイン飲んで、ワイン飲んで、突然何かを思い出したかのように携帯の待受け画面を見てなぜかニヤニヤ。
待受け画面には4か月前に生まれたばかりという、双子の女の子の写真が。
そこからしばらくは”俺の娘がどれだけ可愛いか”という話を聞くことに。

「娘ができて人生が全く違うものになった」と嬉しそうに話していたドクターに「お前もいずれ分かるよ」と言われたけど、子供ができる喜びよりもまず結婚の喜びを知りたいです。
確かに双子の赤ちゃんは可愛かったけど、機内でもワインを飲み続けるドクターの姿を見て、このおっさん仕事忘れてないか?と少々不安にもなりました。
そして会話は基本的に英語なのに、「Yes/No」だけはフランス語で「Oui(ウィ)/Non(ノン)」。
フライトアテンダントにワインを勧められ、ドクターに飲んでいいか尋ねたら「ノンノン」という返事。
アルコールで真っ赤になった顔で「ノンノン」と言われると、ちょっとバカにされているような気分になります。
 
でも人柄も良く、医者として色んな国にも行っているので医者の視点から見た外国の話も面白く、1人で不安を抱えながら帰国するよりは遥かに楽しい空の旅になりました。
| DUBAI | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
無国籍
 ドバイにある病院にもかかわらず、CSHでは印僑が民族的多数派でした。
最多数がインド系、その次がフィリピン系、その次あたりにアラブ系。
他にも中華系やアフリカ系の人たちもいて、院内の公用語は英語。
テレビも英語のテレビ番組が幾つかあった為、病院内だけで生活していると、ここどこ?という感覚に陥ります。

看護師に関しては、自分の接した範囲では6割がインド系、3割フィリピン系、残りの1割がアラブ系っていう感じでした。
フィリピン人看護師の中には、最近日本でも外国人が介護士として働けるようになったし、いずれ日本に行きたいっていう人もいました。
インド系やフィリピン系の人たち、出稼ぎの人が多いみたいで口を揃えてドバイは物価が高い割には給料が安いから嫌いだ、と言っていました。
日本も似たようなもんだと思うけど、フィリピン人看護師曰く、日本も物価は高いけどドバイより給料は良いから日本で働きたいそうです。

インド系、フィリピン系共にお世話になったけど、どちらかというと、インド系の看護師さんはちょっと、何ていうか、苦手な人が多かったです。
もちろんインド人看護師全員というわけではないんですが。

インディアン・イングリッシュが僕にはとても難しく、あの人たちが何て言ってるかよく分りませんでした。
他の国の人からしたら、ジャングリッシュの方が分らないっていう人もたくさんいるとは思うけど、個人的にはインドの人が話す英語はインド人のオリジナル言語です。

それから、毎朝5時に血圧と体温を測るために起こされていました。
なぜ5時?と、毎朝起こされるたびに思っていたけど、きっと病院で決められたルールなんだろうと、だから仕方ないかと思うことにしていました。
でも、インド人の看護師さん、毎朝、血圧と体温を測った後に、「ベッドのシーツを変えたいからトイレへ行って」と言ってきます。
「いや、行きたくないから」と言うと、「なぜ」と聞き返され、寝起きが悪いためこの言葉に毎朝イラッときました。

細かいことではあるけれど、病室の扉を開けっ放しにされたり、薬をダイレクトに手渡しされたり、検温の時、ベッドに置いてあったテレビのリモコンや本を手の届かない所に置かれてそのままにされたり、ナチュラルな嫌がらせが多いです、インドの人。
| DUBAI | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
リハビリ
 ドバイでの入院生活は、イコール、リハビリの日々でした。
CSH 2日目、1週間ぶりに体を起こし、歩行訓練をすることに。
 
ベッドにもたれることなく体を起こした時点で強烈な目眩が。
足も自分では動かせないため、看護師さんや理学療法士のシーラ先生に手伝ってもらいなんとかベッドから足を下ろし、まず一息。
目眩が少し治まってから、4本足の歩行器にしがみつくにようにして立ち上がる。
でも右腕が痛くて力を入れて歩行器を握れないし、目眩がひどくなり両側から看護師に支えられるようにしてなんとか状態維持。
 
元々貧血持ちだからそのせいなのか、それとも寝たきりだった人が起き上がる時は誰もが通る道なのか、目眩がひどく吐き気が…。
重力に逆らい、体を横から縦にする大変さを初めて実感。
それでも実際に歩き始めると嬉しくなり、シーラ先生にほどほどに、と言われるまで歩行器をカチャカチャさせながら歩き回っていました。
 
今の僕の記憶には全く残っていないけど、きっと生まれて初めて歩いた時の気持ちに似てると思います。
急に世界が広がり、このまま歩いてどこへでも行けそう、ひょっとして歩いて日本に帰れるんじゃねーの、と思ってしまうくらい、自由で世界を小さく感じた瞬間でした。
 
ベッドに戻る時はやっぱり1人では戻れないので、皆さんに手伝ってもらいながらなんとか帰還。
立ち上がった瞬間は「ベッドから解放されて俺は自由だ!」と思ったけど、ベッドに戻るとホッと一安心。
歩いて日本に帰るのは無理だと悟りました。
 
次の日は金曜日だからお休み。
厳格なイスラム教の国なんで、多くの人は金曜日はお休み。

その次の日は歩く距離を伸ばし、その次はリハビリ用の段差の低い階段の上り下り。
それから、エアロバイクの前半分をぶった切ってペダルを付けたような機械でペダルをこぐ練習。
最初は足を動かせないから、ペダルに足をのせ、機械がペダルを動かすのに合わせてゆっくり足を動かす練習。
この訓練、痛みもなく自転車に乗ってるような感じでお気に入りのリハビリでした。
ただ、最初のうちは右膝から腰にかけては自分の意思では動かせず、なんか不思議な感覚で、痛いわけではなく、耳の中に水が入ってなかなか出ていかないようなもどかしさを感じました。
 
リハビリ最終日、4本足の歩行器から松葉杖にレベルアップ。
シーラ先生に松葉杖の使い方や注意点を教えてもらい、保険会社に頼んでこの松葉杖を持って帰れるように手配してもらいました。
結局、ドバイでは病院から1歩も外に出ることができなかったため、この松葉杖がドバイの唯一のお土産であり、思い出の品になりました。
| DUBAI | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
CSH
 Canadian Specialist Hospital、略してCSH。
ドバイで僕が収容された病院の名前です。
 
カナディアンというだけあり、病院のシンボルもメープル・リーフ (カエデ)。
カナダとの関係は分からないけど、とにかく素敵な病院でした。
そして、医療途上国と医療先進国の違いも実感してきました。
 
ビシュケクでは、保険会社にキルギスの医療水準の低さを何回も説明されるまでは、どこの国に行っても病院ってこんなもんだろ、と思っていました。
でも保険会社に医療水準の低さを指摘され、キルギスでは感染症になる危険性があるから日本大使館員が手術をするために帰国している、という話を聞き、ここ大丈夫なの?という不安を抱くようになりました。
そのため病院の院長に突然、手術すると言われた時は、「手術したら治るかも!!」という期待や安心よりも、「下手したら殺されるかも!?」という恐怖や不安の方が大きかったわけです。
更に、貴重品は盗まれるから部屋には置かないように言われ全て大使館で預かってもらい、携帯も盗まれるから枕の下に入れておくように毎日のように言われていました。
 
その点、ドバイの病院には安心がありました。
CSH、最高でした。
ドクターにいつ帰国したいか尋ねられた時、「できればこのままここに居たいです」とお願いしたけど、却下されました。
診察券を作ってもらったので、ドバイへ行って怪我したりや病気になったらまたCSH へ行こうと思います。
 
何が素敵かというと、病院というよりはホテルでした。
病院も設立されてまだ5年と日が浅く、救急車は新品だし、病院そのものもまだまだ綺麗でした。
 
病室は個室で電話付き。
32型くらいの液晶テレビが壁に掛かっていて、エアコンがあり、ソファーがあり、シャワーやトイレも病室に付いていました。
 
ビシュケクの病院ではベッドの後部にハンドルが二つ付いていて、そのハンドルを キコキコ回して上半身や下半身のベッドの高さを調節していました。
自力で起き上がることができないためベッドの調節は人に頼んでやってもらっていました。
そんなアナログなベッドを、このベッドはこの病院に一つしかないスペシャルなベッドだ、と言われていたのに対して、ドバイではボタン一つでウィ〜ン、ウィ〜ン、と調節できる全自動のベッド。
 
食事もレストラン、とまではいかないけど日本でいうファミレスくらいの内容で、10時と15時に紅茶とコーヒー、それからビスケットやドーナツが出てきて、20時には食後の紅茶とコーヒーが付いていました。
そして朝食後には、昼食と夕食は何が食べたいかケータリング会社の人が聞きに来てくれます。
 
病院の方針なのか、看護師も掃除のおっちゃんもケータリングのおばちゃんたちも、皆さん患者を「Sir/ Madam」と呼んでます。
そんなホテルのような病院に、もう少しだけ居たかったです。
 
僕が入院していたのは、病院の3階。
3階には「Share」「Single」「Special」 の3種類の部屋があり、僕がいたのは「Special」。
看護師に教えてもらった病室の値段は1日2.000 ディルハム。
日本円に換算すると、約5万円になります。
| DUBAI | 22:28 | comments(4) | trackbacks(0) |
エア・アンビュランス
 海外旅行保険の特約項目の一つ、緊急移送、特に飛行機での緊急移送なんて誰が利用するんだ?と海外旅行をするたびに疑問に思っていました。
実際、これまでエア・アンビュランス(傷病者輸送機、くだけた言い方をすれば "お空の救急車" )に乗った人に会ったこともなければ、乗った人の噂も聞いたことありませんでした。
何の脈絡もなく唐突に、「俺、エア・アンビュランスに乗ったことあるんだよね」と言い出す人もいないとは思うけど、今まで一切そういう話を聞いたことがなかったので、「どんな重病人が乗るんだろ」「どんだけ金が掛かるんだろ」というような興味はかなりあったりしました。
そして、そんなちょっと不思議なベールに包まれたエア・アンビュランスを僕自身が身を持って体験することになるとは想像もしていませんでした。
 
ドバイ行きを告げられた2日後には全ての手配が整い、キルギスをあとにすることに。
思えばキルギス、まともな思い出がありません。
入国した3日後に病院送りにされたんで、当然といえば当然だけど。
そのうちまた自転車持参で行きたい国ではあるんで、楽しい思い出作りは次回に譲ることにします。
 
保険会社が手配した救急車がビシュケク第4病院に来ないというトラブルがあったものの、ジョルディズ先生が別の救急車を手配してくれ、日本大使館が空港に連絡して空港内への救急車乗り入れを許可してもらい、無事キルギスを出国。
空港内でエア・アンビュランスのストレッチャーに移され搭乗開始。
 
エア・アンビュランスは僕の知らない空の旅でした。
 
搭乗者は自分の他に、パイロット数名、フライトアテンダント1名、保険会社が契約しているエア・アンビュランスを扱っている会社の専属ドクター、それからナースが各1名。
 
普通のエコノミーだと、離陸後にフライトアテンダントが名古屋の喫茶店でコーヒーのおまけについてくるようなピーナッツを配るけど、ここでは見た目からして高級そうなチョコレート。
右腕が思うように動かせず、チョコの包みがうまく取れず苦戦しているとフライトアテンダントのおねえさんがさりげなく包みを取ってくれて、「チョコレートを食べたい時はいつでも私に言って」と一言。
今までフライトアテンダントに優しくされた記憶がないため、好きになっちゃいそうでした。
 
離陸後しばらくしてから食事。
エコノミーでは「フィッシュ?ビーフ?フィッシュ?ビーフ?」しか聞かれないけど、今回は選択するメイン料理の説明があり、まずは前菜のサラダ。
食べ終わった頃を見計らい二品目のスープ。
そしてメイン。
ジュースは果物をブレンダーにかけたものをだしてくれるため、本当のフレッシュジュース。
デザートはフルーツの盛り合わせと、3回くらい聞き直して名前を覚えることをあきらめたアラビックスイーツ。
どっちを先に食べたいか尋ねられフルーツの盛り合わせから。
最後にアラブでは一般的というモチモチしたスイーツ。
 
このデザート、温かいうちにどうぞ、というものみたいで、これを食べている最中ドクターに怪我をした状況や痛みの有無を尋ねられていると、フライトアテンダントのおねえさんが「彼は今デザートを食べてるとこだから話は後にして欲しい」とドクターに。
でもドクター、構わずおしゃべりを続ける。
ドクターが話終わったらフライトアテンダントのおねえさんが新しいデザートを持ってきて、「このデザートは温かいうちに食べた方がおいしいから」と食べかけのデザートと交換。
こんな素敵なサービス、今まで受けたことありません。
機内限定でセレブでした、セレブ。

エア・アンビュランスは基本的には身動きが取れない重傷者や重病者を一刻も早く病院へ移送する緊急手段なんで、あんまりはしゃぐのは少し不謹慎かもしれないけど、自分にとってはセレブな空の旅でした。

エア・アンビュランスを専門に扱っている会社やそこで働くドクターやナースの存在を初めて知り、こういう医療の現場もあったんだなっていい勉強になりました。
明日は子供をロンドンまで移送する、という会話をしているドクターやナースの姿を見て、なんかカッコイイ、自分が中学生くらいなら将来の夢、エア・アンビュランスのドクターって言ってるわ、と思いつつ、今から目指したいかというと、そうでもないかなと。
でも、エア・アンビュランスのドクター、来世でなりたい職業トップ5に入ります。

ちなみに保険会社の人曰く、ビシュケクからドバイまでのフライトのお値段は約300万円だそうです。
ビシュケクからドバイまでは約3時間。
つまり、1時間−100万円のフライトでした。
 
| DUBAI | 22:37 | comments(4) | trackbacks(0) |
ドバイへ行っていただきます
 
 
入院中、宿泊していた宿の日本人の方や大使館員の方に日本語の本を何冊か借りていました。
最初の頃は右腕が思うように動かせなかったため、読書するにも不自由であまり本を読まなかったけど、右腕が多少動くようになってからは一日中読書の時間でした。
ある意味、贅沢な時間を過ごしたと思います。
 
その中で個人的に一番気に入った本は、藤原 新也著 「全東洋街道 上・下巻」 、特に上巻が僕の中では良かったです。
機会があれば一度読んでみて下さい。
 
この、旅行記のような、自己啓発のような、哲学のような文庫本、確かに面白かったけど問題が一つあり、良く言えば艶やかな女性が、悪く言えばハレンチな女が表紙なんです。
そして挿入されていた写真にも売春婦の写真が何枚かあります。
文章と合わせて見ると、とてもアーティスティックな写真に見えるけど写真だけ見るとやっぱりそんな風には映らないみたいで。
主観的には、興味深い旅行記を一心不乱に読んでいる僕、と思っていたけど、客観的には、夢中でエロ本読んでる日本人、と映っていたみたいです。
 
ミラーさんにどんな本を読んでいるのか尋ねられ、周りにあった本を一冊、一冊手に取り、これが旅行記、これが小説、これがエッセイ、と説明しているところに一言、
「看護師が、あなたいつもポルノ読んでるけどセックスの勉強してるの?って言ってたけど、そんな勉強してるの?」
 
最悪です。
ビシュケク市内で強盗に襲撃されて病院送りになり、その上、入院先の看護師にはあの日本人、腰が使えないからエロ本ばっか読んでる、っていう噂をたてられるなんて。
さらに、担当医には手術は必要ない、一日の入院費はUS$60 と言われていたのが、その日病室にやってきた病院で一番偉いという院長先生が、突然、明日手術する、それから入院費も一日US$250 払うようにと言いだし。
結局、手術も入院費も担当医やジョルディズ先生が院長に掛け合ってくれて、手術なし、入院費も一日US$60におさまったものの、さすがに、こんな院長がいる病院にはいたくないなって気分になりました。
 
そんな折、保険会社から一本の電話が。
「キルギスの医療水準は低いので、今の状態では適切で安全な治療を受けることが非常に困難です。そのため、弊社の医師と協議した結果、できるだけ早い時期に弊社のプライベートジェットで医療先進国のドバイへ行っていただきます」。
| KYRGYZSTAN | 22:14 | comments(2) | trackbacks(0) |
介護士
もう一つの初めての経験が、5日間だけど寝たきり状態になったこと。
腰の右側を骨折したため、左半身は動くものの右の下半身は足首から下だけが動かせる状態。
さらに右腕も強打していたため、入院して最初の3日間は右腕も動かすことができませんでした。
 
そんな状態なんで、1人では食事もできなければ着替えもトイレもできず、できることといえばせいぜいベッドの上で回復を祈ることくらい。
ジョルディズ先生の知り合いに英語が話せる介護士の方がいたのである程度動けるようになるまではその介護士さんに身の回りの世話をお願いすることになりました。
 
介護士のミラーさん、会うまではなんとなくおばちゃんの介護士をイメージしていたけど、実際は28歳と僕よりも若い女性の介護士さんでした。
 
食事は、「熱いからフー、フー、して、はい、あ〜ん」というような、ちょっとスイートなシチュエーション。
言葉のやり取りは全くなかったけど。
 
当然、シャワーを浴びることもできないので1日2回、朝と夜にタオルで体を拭いてもらっていました。
首筋などの垢がたまりやすい部分を拭いたら「dirty、dirty」と、とてもストレートな感想を言われたりもしました。
それでも体を拭いてもらうと気分的にだいぶ楽になり、体を拭いてもらうたびに「あ、すいません、30分延長お願いします」っていう気分に。
 
トイレに関しては少し複雑な気持ちに。
携帯用のトイレを使っていたけど、最初の頃は痛みで何も考える余裕がありませんでした。
3日くらいたつと痛みも若干治まり、いろいろと感じる余裕も出てきます。
おばちゃんの介護士さんなら、「おかあさん、オシッコ!」という感じでもっと開き直ることもできたかもしれないけど、実際はそこまで開き直ることもできず、トイレの世話をしてもらうと、恥ずかしいような、情けないような、有難いような、動けないから仕方ないしと開き直ったような、いろんな感情が混じり合います。
パレットにいろんな色の絵具を混ぜ合わせると、綺麗なのか汚いのかよく分からない変な色になることがあるけど、そんな変な色のような変な気分。
僕の場合は5日間だったんでそこまで深く考えることもなかったけど。

ちなみに、病院のドクターと同じくとてもお世話になった介護士のミラーさん、素敵な旦那様と可愛い子供が3人いるそうです。
| KYRGYZSTAN | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
カテーテル
 
これまでの人生、あまり病院とは縁がなかったため今回の入院ではいろいろな初体験を経験しました。
その中で、今後の人生において二度と経験したくないことがいくつかあります。
そのうちの一つが尿道カテーテル。
 
噂には聞いていました、男に生まれたことを後悔したくなるくらいの痛さだと。
 
ビシュケク市第4病院に搬送された日の夜。
 
寝る前にジョルディズ先生に「オシッコをしましょう」と尿瓶を手渡されました。
尿意はなかったものの、とりあえず尿瓶を受取り股間にセット。
しばらくボ〜ッとしてたら先生に「出ましたか?」と聞かれ、
 
僕 「いや、出ません」
 
先生 「なんで出ませんか?」
 
僕 「え、、、なんでって、、、すいません……」
 
「待っててください」という言葉を残し、ジョルディズ先生は診察をしたドクターのところへ行き、その後戻ってきて一言、「管を入れましょう。」
 
断りました。

それからしばらく頑張ってみたものの、やっぱり出る気配もなく、先生にも「骨折をして腰の周りの筋肉が一時的に縮小しているためオシッコが出にくい状態になってるから管を入れた方がいい」と言われ、結局入れてもらうことに。
 
上半身、下半身共に思うように動かせなかったため、首をおこしてキルギス人の女看護師が準備をするところを眺めていました。
用意された管を見て、(そんな太いの入らない)と思ったのも束の間、挿入開始。
 
挿入直後から耐えがたい激痛で、ロシア語で痛みを訴えられないため、鶏が鶏肉になる直前にあげるような切ない悲鳴で痛みを訴えるもキルギス人の女看護師、笑いながら「OK、OK」と言うだけで、管はどんどん奥へ。
「OK、OKって、何が!?」と腹が立つし、キルギス人の女看護師に大切なムスコが穢された気分になるし、でもとにかく痛いし、最低でした。
 
そこから更に奥へねじ込まれ、(神様、もうオスをやめたいです)と思い始めた頃、ようやく挿入終了。
管を入れ終わった後、看護師が小腸か膀胱かよく分からないけど、下腹部を軽くもみ始めると管を通り、備え付けの袋へ放尿開始。
 
翌朝には外してもらったものの、管を入れられる時も痛いし、入れられた状態も痛いし、外す時も痛いし、その後2、3日はオシッコするたびに痛いし。
たった1日、夜寝る前にオシッコが出なかったというだけでこれだけの痛みを経験した必要性と意味が未だに僕には分かりません。
| KYRGYZSTAN | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
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